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2024/05
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頭を殴られたように意識が覚醒し、テュリスは飛び起きていた。
カーテンの隙間から、仄明るい月光が寝室に差し込んでいる。
 息が乱れている。また追いつけなかった……逃してしまった……昔のように――あれは――!
目元を押さえると、布団を跳ね除けてスリッパを履いた。ガウンを取り、夜着の上から羽織る。使用人たちはほとんどが帰宅しているだろう。この屋敷に住み込みで仕えているのは、ジャックくらいだ。
 
 夜も更けていたが、兄の書斎からは細い光が漏れていた。テュリスがノックして扉を開けると、机の前に座り、蝋燭の光の下で書類に羽ペンを走らせていたジュストが、驚いた表情で動きを止めた。
 「どうしたテュリス、こんな時間に。……何だお前、泣いているのか?」
 「兄さん、どうしよう。どうしたらいいのか分からなくて」
 席を立って妹の傍へやってきた兄に、テュリスは抱きついていた。病に侵されていた数年前の兄の胸には、今のような力強さはなかった。声だって掠れていて……。
 「一体どうしたんだ……悪い夢でも見たのか?」
 「……懐かしい人に会ったんです……昔、剣の扱い方を教えてくれた先生で」
妹の肩に手を置いていたジュストが、ピクッと反応した。
 「だから――今日は様子がおかしかったわけだな」
 「分かっていたんですか?」
 「そりゃあ分かるさ。何年兄妹をやっていると思ってるんだ。それで……そこまで取り乱すほどのことだったのか?先生との再会は」
そこでテュリスは逡巡した。ベッドから飛び起き、この部屋の扉を叩く前は、兄にすべてを打ち明けてしまうつもりだった。
だが今は迷っている。打ち明けたくもあったが、こんな時間まで、新しい土地での事業のために身を填む兄の気苦労を、これ以上増やしたくない――兄さんが私のために、いつも余計な気遣いをしているのを知っているから。今日の、キズキと言い争いをしていたときの、疲れ切った表情を見てしまったからなおのこと。
私はなんて我侭な人間なんだろう。
「い、いえ、ごめんなさい。もう会えないだろうと思っていた人に、こんな土地で再会することになるとは思ってもいなかったので……」
 目元を擦り、弁明する妹の金髪の頭を、兄は我が子をなだめるように穏やかに叩いた。
「むしろ、この土地だからこそ再会できたんじゃあないか?本国は移住を積極的に推奨しているから……。その先生も、一山当てるためにここに移ってきたとしてもおかしくはないだろう」
「守るような名誉も家も、もうないと」
「ん?」
「……その人が、昔言っていました」
ジュストは頷いてみせ、
「過去と現在は決定的に違うさ。その先生も事情が変わったんだ」
兄の言葉に、テュリスは陰鬱に呟いた。
 「……そうかもしれませんね。――私たちも――先生がいた頃は、まだお父様がいました。けれど、今はいない」
 「……好き放題やっていた方だったからな」妹と同じく、兄の声も暗澹としていた。「誰かに恨まれていたとしても、不思議じゃない」
 メイヤード家前当主の絢爛と喧騒、退廃の人生はあまりにあっけなく、自室のベッドで物盗りに刺殺されるという最期だった――そして、他でもない彼自身の娘が、シーツに埋もれて死んでいる父親の姿を第一に発見したのだ。
「今思うと――あの人に相応しい死の形だったのじゃないかとすら考えてしまうよ。現場に居合わせてしまったお前はショックだっただろうが」
当時はまだテュリスは十二歳と幼く、ジュストが病を得ていたこともあり、メイヤードの子供たちは同じ貴族である父方の叔父に養子として引き取られることになったのだが、そうなる前に今度は叔父が急死してしまった。当主の残した遺産のこともあり、親戚一同の間でメイヤードの子たちをどうするかについてはかなりもめたが、結局病が快方に向かったジュストが当主となることで決着し、今に至るわけだ。
 「そうですね、少し……」
ですが私、いけないことだと分かっていても考えてしまうんです。お父様がいなくなってから、兄さんの病気も快方に向かい、当主の座につくことができた。私自身ももう父の関心を得ようとする必要も――キズキに嫉妬する理由もなくなった。ある意味、我々は解放されたのではないかと。
胸に顔をうずめてくるテュリスの背を、ジュストが慰めるようにさすった。兄というよりも、父親そのもののような仕草で。
 テュリスは唇を震わせたが、やがて兄から身を離した。
「――ごめんなさい兄さん。変な夢を見たせいで、余計に混乱してしまって。お仕事の邪魔をしてすみませんでした」
 「テュリス、お前……」
 部屋を出て行こうとする妹に対して少々言いよどんでから、
 「お前、例の先生との間に何かあったのか?」
 夜中に書斎を訪れたことの核心を探ろうとしてくるジュストに、テュリスは再び心が揺れるのを感じた。
だが、話さないと決めたことだ。
 「……昔は憧れていましたね。惚れていたんです。私よりも当然大人で、強い方でしたし――人を惹きつける魅力のある人でしたから。変わり者でしたが」
 「――そうか――変人だったのか」
 「ええ、“変人”です。ただそれだけで、何もありませんでしたけどね。……子供が格好いい大人に憧れた、ただそれだけです」
 「――あまり私を不安にさせないでくれ」
 「……ごめんなさい」
 廊下に出て後ろ手に書斎の扉を閉じ、テュリスは自分の部屋へと猫のような静けさで歩き出した。
 ――兄さんのことを……家のためを思うのなら、もう我侭はやめなければ。
 それは諦めにも似た感情だった。窓の外の木々が風に揺れ、暗い囁きのようにざわめいている。
いつまでも、子供のままじゃいられないんだよ。
 
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